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乾陵
乾陵 · 中国・陝西省咸陽市乾県
唐の高宗李治と武則天を合葬した陵墓で、梁山の北峰をそのまま陵としています。神道の石刻群と六十一体の蕃臣像が今に残り、主墓の地下宮殿は一度も発掘されていません。
出かける前に · Know before you go
- 石刻に登ったり傷をつけたりすること
- 柵を越えて未公開区域に入ること
- 墓室内で大声を出すこと
この記事は「未確認」です。料金・営業時間・日程は公式の発表をご確認ください。
物語と人物
物語と人物
伝説
無字碑の謎
無字碑は一枚岩から彫り出され、高さ約7.5メートル、重さ約98トンありますが、碑面には碑文が刻まれていません。その理由には諸説あり、武則天が自らの功罪を後世の評価にゆだねたという説や、中宗が碑を立てる際に彼女を皇帝と呼ぶか母后と呼ぶか決めかね、刻まないまま置いたという説があります。宋・金以降は訪れた人々が碑に題字を刻むようになり、その中には契丹小字と漢文を並べた金代の題刻もあります。
史実
六十一体の蕃臣像
朱雀門の外に並ぶ六十一体の石像は、当時唐に服属した諸民族の首長や外国の使節を表し、背面にはもともと国名と人名が刻まれていました。1556年の嘉靖大地震で六十体が損傷し、現在はほとんどの像に頭部がありません。2003年までに36体の身元が確認されています。
史実
開かれなかった地下宮殿
1958年、地元の農民が発破で石を切り出していたところ、偶然に乾陵の墓道の入口が現れました。1960年には陝西で発掘委員会が設けられましたが、計画は国務院に承認されず、周恩来が「このことは後の世代に完成を託してよい」と指示したことで発掘は中止されました。墓道が完全で盗掘坑も見つかっていないため、乾陵は唐の十八陵で唯一盗掘を受けていない陵墓だと考える専門家が多くいます。
伝説
黄巣の盗掘
唐末、黄巣が大軍を動員して乾陵を掘らせ、深さ四十メートル余りの大きな溝を掘ったものの、墓道の入口は見つからなかったと伝えられています。五代に温韜の軍が唐の諸陵を盗掘した際も、乾陵は堅固な造りのおかげで難を逃れました。
文化
文化と習慣
文化的な背景
乾陵は咸陽市乾県の梁山にあり、西安の北西約85キロに位置します。梁山には三つの峰が並び、最も高い北峰の下に地下宮殿があります。南側の二つの峰は東西に向かい合い、陵園へ入る天然の門の役割を果たしています。陵園の配置は唐の長安城にならっており、約4キロの神道の両側には華表、翼馬、ダチョウ、仗馬と馬を引く人物、文武官の像が順に並びます。神道の東には無字碑、西には述聖記碑が立ち、朱雀門の外には六十一体の蕃臣像が並んでいます。 唐の高宗は683年に亡くなり、翌年乾陵に葬られました。706年には唐の中宗の命で武則天がここに合葬され、陵区も拡張されました。陵区には十七基の陪葬墓があり、2013年までに永泰公主墓、章懐太子墓、懿徳太子墓など五基が発掘され、多くの出土品と壁画が見つかりました。乾陵博物館は永泰公主墓に置かれています。1961年に第一批全国重点文物保護単位に指定され、2012年には陝西省文物局が少なくとも五十年間は主墓を発掘しないと表明しました。乾陵は唐の十八陵の中で主墓が最もよく保存された陵墓と一般に考えられています。
地元の習慣
神道を南から北へ歩き、石刻群、二つの碑、蕃臣像を順にご覧ください。梁山の北峰に登ると、陵区と乾県の平野を見渡せます。永泰公主墓など発掘済みの陪葬墓と乾陵博物館では、出土品や壁画を通じて唐代の宮廷生活と葬制を学べます。
マナーとタブー
マナーとタブー
してはいけないこと DON'T
- 石刻に登ったり傷をつけたりすること
- 柵を越えて未公開区域に入ること
- 墓室内で大声を出すこと
地元の人に喜ばれること DO
- 公開されている順路に沿って見学すること
- 墓葬遺跡では静かにすること
- 撮影時は石刻から距離を保つこと
旅の計画
実用情報
旅のヒント
- 陵区は広く坂道が多いため、歩きやすい平底の靴でお越しください。夏は日焼け対策と水分補給を、冬は防風・防寒をお忘れなく。入場料と開館時間は公式発表をご確認のうえ、出発前に景区の告知をご覧ください。西安から高速道路で北西へ車で約一時間で乾県に着き、そこから現地の交通機関で陵区へ向かいます。西安発の日帰りツアーを利用する方法もあります。出発前に公式情報と駅の情報をご確認ください。
- 春と秋は気候が穏やかで、最も観光に適しています。夏は光がよく、石刻の撮影に向いています。冬は観光客が少ないものの、寒風と路面の凍結にご注意ください。
写真

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