
作者不详 · Public domain
戦国時代 · 1548–1610
本多忠勝
本多忠勝 · 日本
徳川家康に仕えた戦国武将
戦国時代後期から江戸時代初期の武将。徳川家康の譜代家臣で、徳川四天王の一人(井伊直政・酒井忠次・榊原康政と並称される)。鹿角兜と名槍蜻蛉切で知られ、生涯五十余戦に従軍しながら重傷を負わなかった(後世の伝承)。
人物と物語
生涯の足跡
三河国出身。父忠高は早く没し、叔父に育てられ、13歳で初陣を飾った。桶狭間・姉川・三方原(1572年に家康の浜松城への撤退を掩護した。武田軍の「家康には二つの不相応なものがある。鹿角兜と本多平八郎」という言葉は後世の伝承である)、長篠(1575年)、小牧長久手(1584年に30騎ほどで秀吉の大軍に正面から挑み、秀吉が加害を禁じたという有名な逸話)、小田原、関ヶ原(1600年、57歳でわずか500騎ほどを率いて突撃し、乗馬が矢を受けた後に馬を乗り換えて再び戦った)を歴戦した。1590年に大多喜(上総、10万石、一説に15万石)を領し、1601年に桑名(伊勢、10万石、一説に15万石。忠朝は大多喜5万石を分領した)に転封した。1609年に隠退し、子忠政が桑名を継いだ。
- 出生地:三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前一帯)。
- 活動地:岡崎城(現在の愛知県岡崎市)、浜松城(現在の静岡県浜松市)、大多喜城(現在の千葉県大多喜町)、桑名城(現在の三重県桑名市)、関ヶ原古戦場。
- 死没地:二説を併記する。江戸説と桑名説(両説と注記)。
- 埋葬地:二説を併記する。千葉県大多喜町の了源寺には忠勝夫妻と忠朝の墓がある(了源寺は忠勝が1595年に建立し、初名は良心寺、後に忠朝の法名を取って了源寺と改称した。現在は忠勝肖像・位牌・文書を蔵する)。ほかに高野山にも墓碑があるとの説がある。二者の関係は確載されておらず、二者択一で断定してはならない。
- 参考地:大多喜城(千葉県立中央博物館大多喜城分館)、岡崎城、桑名城址。
文化的意義
忠勝は「武士の中の武士」の化身である。鹿角脇立兜・黒糸威胴丸鎧・名槍蜻蛉切(「蜻蛉が刃に止まれば断たれる」は伝説)。生涯57戦(一説に50余戦)で重傷を負わなかったことは後世の伝承である。信長の「武士の中の武士」、秀吉の「東に本多忠勝、西に立花宗茂」、信玄の「家康の過分なもの」はいずれも後世の伝承語であり、確証ある語録として扱ってはならない。岡崎市と大多喜町はともに忠勝を都市の武将ブランドとしている。



