
作者不详 · Public domain
戦国時代 · 1530–1578
上杉謙信
上杉謙信 · 日本
「越後の龍」と呼ばれた越後国の大名
戦国時代中期の越後国大名。長尾氏出身で、1548年に長尾家を継ぎ、1561年に上杉家を継承して関東管領に任じられた。越後を拠点に武田信玄・織田信長・北条氏と渡り合い、「越後之龍」「軍神」と号した。
人物と物語
生涯の足跡
父は長尾為景。1548年に家督を継ぎ、拠点は春日山城(現在の新潟県上越市)。毘沙門天を篤く信仰し、出陣前には必ず春日山の毘沙門堂に参拝した。「毘沙門天の化身」との説は後世の尊称であり、史実として扱ってはならない。武田信玄と五度の川中島の戦いを戦い、1577年の手取川の戦いでは織田軍(柴田勝家)に勝利した。生涯70余戦で目立った敗北がなかったとの説は後世の評価であり、「後世称」として扱う。死因は病没である(『謙信軍記』には三月九日に厠中で腹痛を起こし、十三日に没したとある。学界の通説は病気の悪化であり、一説に食道癌)。厠中での忍者暗殺説は伝説であり、未確定と注記する(たとえ刺客がいたとしても、すでに重病であった者の死を早めたに過ぎない可能性があり、辞世の詩からも死期を予感していたことがうかがえ、暗殺説の可能性は低い)。死後、養子の景勝と景虎(北条氏出身)の間で御館の乱が勃発した。
- 出生地:越後国(現在の新潟県)。
- 活動地:春日山城(現在の新潟県上越市)、川中島、手取川(現在の石川県一帯)。
- 死没地:越後国の春日山城。
- 埋葬地:米沢の上杉家墓所(遺骸の最終安置地。死後、甲冑を着せて陶棺に納め、まず春日山城内に安置され、上杉家の会津・米沢への移封に伴って移された。1876年に米沢藩主上杉家墓所の景勝墓と第三代定勝墓の間に謙信御廟が建てられ、遺骸が安置された。同墓所は法音寺が管理する)。上越市の林泉寺(上杉家の菩提寺)にも謙信墓があり、上越の墓所/供養地として列挙する。二つの場所の関係を明確に説明し、混同してはならない。
- 参考地:春日山城址、林泉寺、米沢の上杉博物館、春日山の毘沙門堂。
文化的意義
謙信は「義将」と「軍神」の二重の象徴である。毘沙門天信仰、信玄との惺惺相惜しむ宿敵の物語(「敵に塩を送る」――塩不足の武田家に食塩を送ったという逸話は後世の美談である)、越後軍団の強さにより、上越市と米沢市の双方が記念する人物となり、毎年謙信公祭と上杉雪灯祭が開催される。
物語の舞台
ゆかりの地を訪ねる
史実 · 春日山城跡
春日山城跡の歴史をたどる
春日山城は越後守護上杉氏の詰城に起源し、長尾氏、上杉謙信、上杉景勝の四代の居城となり、天然の要害と複雑な曲輪・空堀で知られた。
史実 · 川中島古戦場
川中島古戦場の歴史をたどる
1553年から1564年にかけて、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は北信濃をめぐり川中島で五度戦い、1561年の第四次八幡原の戦いが最も激しく、双方に甚大な損害を与えたが決着はつかなかった。
伝説 · 川中島古戦場
信玄と謙信の軍配伝説
上杉謙信が一騎で武田信玄の本陣に突入し、信玄が軍配で攻撃を受けたという伝説があります。二人が川中島で戦ったことは史実ですが、この接近戦の場面を裏付ける同時代の確かな記録はありません。
史実 · 山形県・米沢(上杉神社と米沢城址)
米沢城と伊達政宗・上杉家
伊達政宗は1567年に米沢城で生まれました。関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は米沢へ移封されました。現在の城跡は松が岬公園で、上杉神社には上杉謙信が祀られています。


